江戸琳派の画家として知られる村越其栄(1808~1867)は、千住を活動の拠点とし、地域の商家とも繋がりがあったといわれています。 鈴木其一の門下で絵画を学んだ其栄は、天保11(1840)年に下谷から千住河原町に居を移し […]
江戸琳派の画家として知られる村越其栄(1808~1867)は、千住を活動の拠点とし、地域の商家とも繋がりがあったといわれています。 鈴木其一の門下で絵画を学んだ其栄は、天保11(1840)年に下谷から千住河原町に居を移し […]
千住第四代名倉彌一は、代々の当主が号した「名倉素朴」の名を受け継ぎました。 医業に励む一方、俳人としても活動し、江戸の藩主や医師、政財界人、芸術家など幅広い分野の人々と親しく交流を持ちました。 その交友関係の広さは、彌一 […]
名倉医院には、業祖直賢の時代より「黒膏」と呼ばれる練り薬が伝わっています。 主な材料は、ニワトコの木。別名接骨木とも呼ばれるスイカズラ種の落葉灌木です。これを蒸して臼で引き、すり鉢で粉状にします。 昭和の初めごろまでは、 […]
近代日本を代表する小説家であり、陸軍軍医の森鴎外(1862-1922)も、名倉家と所縁がある人物です。 鴎外の父、森静男は当時の千住宿北組に医院を開業していたため、鴎外も東京大学予科卒業後、陸 […]
名倉家は、嘉永元年(1848)1月、徳川第十二代将軍家慶の時代に将軍家の御鷹狩の休息所に選ばれます。 千住第三代名倉市蔵尚壽は家屋の大改修を行い、武家屋敷を思わせる邸宅を建造しました。 実際の御成りは、嘉永元年(1848 […]
戦前まで名倉家代々の家憲では、相撲取り、役者、鳶の衆、仕事師(大工)、芸者、幇間からは治療費を頂きませんでした。 その根底には「これらの職業の人たちは、人々の娯楽のためにわが身を粉にして働いてくれる」という業祖直賢の想い […]
化政文化を代表する浮世絵師である葛飾北斎は、名倉直賢の友人の一人でした。 飯島虚心著『葛飾北斎伝』(蓬枢閣・1893年)には、北斎が直賢の元に入門し人体の骨格や筋肉について学んだと記されています。 北斎の代表作である「富 […]
明治期に活躍した小説家 夏目漱石は、幼少期に廊下から庭に落下して足を骨折し、千住の名倉で治療を受けました。 その時の経験を自伝ともいわれる小説『道草』に記しています。